西口五差路
大好きな人と、生活をしている。
朝起きて、仕事に出る彼を見送って、掃除や洗濯をしたりして、たまに昼寝なんかして、夕飯を作って帰りを待つ。
お互いに1日の話をして、「たまには外で遊んでおいで」なんて言われたりして。そのあと映画を見て、あーだこーだ言い合ってお風呂に入ってセックスをして寝る。そんななんの変化もない生活を愛してる。
どこがどうとかじゃなくて、もっと本質的なその人に染み付ききった部分を愛している。できるだけ一緒にいたくて、もう二度と離れたくなくて、大切すぎて泣きそうになる。
"本当はただたださわりたくて、キスしたくて、抱きたくて、少しでも近くに行きたくてたまらなくて一方的にでもなんでも、涙がでるほどしたくて、今すぐ、その人とだけ、その人じゃなければ嫌だ。それが恋だった。" とかげ/吉本ばなな
ラブ・アクチュアリー
いい映画だった。
どんな環境に置かれているか、誰と見るか、どんな雰囲気で見るかによって違う色を見せる映画だと思う。
とにかく、良かった。また見よう。
憤る
誰と誰がセックスしたとかしないとか、本当にびっくりするくらいどうでもいいわ。女の勘は鋭いとか言うけど、ただ暇すぎてそれしか考えてないだけじゃねーのって思うわ。
大切なものを大切にするのは大いに結構だけれど、人のために自分を見失うようなら考え直したほうがいいし、それで人に(主に私に)迷惑をかけるようなら滝にでも打たれて来てくれ。
そもそも他人の携帯覗いたり、SNSをこっそり覗いてみて良いことなんかないと思うんだよね。覗かれる側も、不特定多数が見られる形にしているなら予防線張っておくか、見られても問題のないようにしておけよって思うけど。ていうかTwitterだろうとFacebookだろうとInstagramだろうとLINEだろうと、足のつかないのようにするやり方はいくらでもあるはずだし、恋人がいるっていう肩書き持ってるなら細心の注意を払えよマジで。
できないならSNS辞めてください、あと恋人のSNS覗き見して夜中に電話かけてくる女もSNS辞めてください。みんなの心と身体がどんどん不健康になっていきます。
昔教えてもらったウェイソンの4枚カード問題、ここから人間に備わっている裏切り発見モジュールというものがいえるらしい。
人間は単純なルールには鈍感だけれど、違反や裏切りを探すときにはいつも以上の能力を発揮できる、そんなアーキテクトを持っている。俗に言う「女の勘」ってやつはこれに通ずるものがあると思う。
これ、生物としては正しいかもしれないけど、社会的に見たらこれを偏重するのは良しとはされないだろうよ。現に私の睡眠時間削られてるし。
「世の中いろんな人がいるからね」って言葉を武器につけてから、他人に対して怒ることが少なくなっていたんだけれども、睡眠を迫害されると非常に腹が立つな。
男も女も、頼むからもう少し気を回してくれ。眠い。
ピアス
仲のいい友達に呼ばれて、その子の家に泊まる日が続いた。
どうやら、1人だと眠れなくなってしまったらしい。
その気持ちが良くわかる私は、言われるがままに数日間共にした。
みんな言わないだけで、一人の部屋で眠れないってやつは割と多い。同性だろうと異性だろうと同じ部屋にいてくれさえすれば、なぜか眠れる。経験的なものからそういうことを考える人は少なくないんじゃないか、とそう思う。寂しいだとか、セックスがどうのとか、惚れた腫れたがどうのとか、本当にそういう話じゃなくて、ただ誰かがそこにいて、人の生活する音がする。それだけで、少しの緊張感と安心感に包まれて、良質な睡眠が取れる。
私も一時期そういう時があった。
私の場合、それがもしかしたら心と体を許す人間がいないせいなのかもしれない、と思って、この子と同じように友人を家に置いたり、男性と一晩だけの関係を重ねたり、俗にいうソフレというものを作って同じ時間を過ごしてもらった。
申し訳ないけれど、ただ、自分の為に、生活のために、全うに生きていくために眠りたいだけであって、そこに恋だとか愛だとか性欲なんかは1つもなかった。
申し訳ないのか?むしろ、都合のいい女であっただけかもしれないね。
でも、同じ部屋に人がいて、会話はせずとも存在を感じているということが、何故だか私に安心を与えていた。同じベッドに眠らなくても、同じ時間に睡眠を共にしなくても、それらは関係のないことで。ただ本当に、眠りたかった。寝たかった。
だから、この子の気持ちは痛いほど分かる。涙が出そうになるほどに、わかってしまう。
この子は、男の人と遊べるほど割り切れなくて、でもどうしようもなくて、私を頼ってきた。泣きながら。
帰り際にも、「もう来てくれないのかも、と思うと寂しくなるから何か置いていってよ」と言われて、大事にしているピアスを置いてきた。
この時間によって、何か与えられるものがあったなら良かったと思うし、また、この子から何かを奪ってしまったようであっても、仕方のないことだとも思う。
メンヘラって言葉が俗語として一般的になって暫く経つ。軽々しく扱う機会が多くて、なんだか世の中の人間みんなみんなメンヘラに見えてくることもあるけれど、みんなどこかで他人を拠り所として生きているのには変わりない。それを依存だと言ってしまえば、そこまでだけど。
この子が世間一般から見て、メンヘラかどうか、そんなことはまあどうでも良いよ。
可愛いらしくて、それから少し羨ましくて。「何かあなたを感じられるものを置いていって」なんて言えてしまうことが。ドキドキしてしまうよね。
いやらしいと思っていても、こっそりピアスを枕元に置いて帰るような、そんな思慮の浅い女になってみたかったと、少しだけ思ってしまう私がいた。いやらしいとすら思わずに、が本当か。
you me.
最近、恐ろしく夢見が悪い。
夢占いによると、どうやら私は何かから逃げ出したいらしい。深層心理なんて言葉はテキトーで、いったい何から逃げ出したいのかが分からなければ何の意味もないよ、まったく。
古来日本人は、夢に出てくる人は自分のことを強く思ってくれている人間だと信じていたという。都に登った、戦いに出た愛する人を思う中で、そう考えなきゃ、やってられなかったからだろう。
交通機関の発達した現代日本では、そんな風流な考えはいつの間にか薄れてしまった。会おうと思えば、大抵の場合は大した時間も労力もかけずに会いたい人に会うことができる。会おうと思えば、の話だけれど。
何かから逃げるためにも、会いたい人に会いたい時に会いに行くためにも車の免許を取ろうかな。幸いなことに自由な時間は多くあるし、会いたいと思う人も多くいる。
私の苦手な都会の夏を捨てて、湿った空気やぬるいビル風から逃げて、星がたくさん見える田舎に行きたい。それから、秋や冬になったら季節外れの海にも行きたい。秘密にしている、恐ろしく冷たい水が流れる綺麗な河原を誰かに見せたい。行きたいところも、限りなくあるな。素敵な場所で素敵な人とケラケラ笑って子供のような気持ちでいたい。
ゆめゆめ、ゆめゆめ疑うことなかれ。夢見る子供の夢の夢。
マイマインド
一体僕らはいつまで同じことで、同じ場所で悩んでいるのか。悩むことと考えることは大きく違う。悩んでいるという事実を人に知ってもらって気にかけてもらおうだなんて傲慢だ。世界は結局のところ結果論で回っていて、過程だけを大切に見てくれる人なんてそうそういない。結果があって、それから過程が評価されるだけの話だ。
生活が上手くいくとかいかないとか、誰かを愛してるとか愛していないとか、信じられるとか信じられないとか、多くは自分のマインドセットによる。自分がどうしたいか、そこに重きが置かれているのではないか?
と、同時に自分に対する相手の思いも、自分とどうなりたいかも相手にしかわからない。それならば、自分が好意を寄せる相手には、思うようにしてもらえるように、自分が動かなければいけない。別に操りたいわけではなく、相手の思うようにという意味。大切にしている人には、できる限り思うように生きて欲しいと思う。もちろん責任の元で。
スパゲッティシンドロームという言葉がある。重症患者がたくさんの医療器具をつけられて管に塗れている状態を指す医療用語であるのだが、こんなしがらみに塗れた日常もそれに当てはまるのではないか、と思うよ。まあ、電脳化されたこの社会で見えない回線に雁字搦めにされている様もその様に見えるけどね。
ただ、誰かとどうしたいか、自分はどうなりたいか、その多くは自分にあるという時点では異なる。
多くは自分次第だ。
生活
文章は読んでないと読めなくなるし、書いてないと書けなくなる。そんな話をしたから、久しぶりに近況と思うことを書く。(近況といっても、そもそもここは日常を書き綴る場所ではないのだが)
しかし全くと言っていいほどまとまらない…。Twitterというツールが幅を利かせているせいで推敲せずに所見を発信できてしまうせいだ、きっと。私が能動的でなくなったわけじゃないと思う、思いたい。。。
環境は変わってないけれど、自分自身はここ最近少し変わったと思える。
半年くらい、断捨離を続けてきて少しずつ身の回りが整理されてきた。物だけじゃなくて、人間関係も。大事に大事にしまってきて誰にも触られたくなくて思い出すだけで泣き出しそうになるものも、久しぶりに取り出してみれば、どうしてこんなもの、こんな奥底にしまっておいたのだろうと鼻で笑ってしまうようなことすらある。時間がもたらす作用というのはすさまじく、遅かれ早かれ多くのことは時間が解決する。ただ時が過ぎて風化していくのを待つだけでなくても、新しい土も積み重なっていく。そうして大体のことは忘れていく、後はもう捨ててしまったって、無い胸も痛まない。もちろんその中で、忘れられないものも捨てられないものも少なくはないけどね。それすらもきっと、いつの間にか、時間や新しいものたちによって忘れていく。だから大切にするべきものは今あるものなんだろうな。なんだか安いJ-POPみたいだけれど。
それから、一眼レフを譲り受けて始めた。私にはクリエイティブな才能が全く備わっていないので、大したものは撮れないのだけれど、楽しい。彼氏や友人たちといろいろな場所に行って、写真を撮る。目的地へ向かう道程もすごく好きだ。カメラを持つことでいろいろな場所に行くようになったし、カメラを通じてまったく関わることのなかった人たちとも接する機会ができた。今まで無趣味であった人生がどうしようもなくもったいないと思えるほど、趣味をもつということは良い。
多くは、私の好きな人たちを撮っている。好きな人だからこそ、上手く撮れたり、その人らしい写真が撮れたりしたら嬉しい。逆に言えば、上手くいかなかったときはものすごいヘコんで、やっぱり私には向いてないし、もっと才能のある人が撮った方が被写体も幸せなのでは?と投げやりになる。ただそれでも、写真を撮りたい上手くなりたいという気持ちは残るので、気負いせず続けていけたらいいな。
また、彼らを撮るだけじゃなくて撮ってもらうことも多くて、それは幸せなことだと感じる。なにか、誰かに、感じさせることがあって考えさせることがあって、一枚の写真に存在できることは嬉しい。
ダラっと変化のある近況を書いてみたけど、反面で全く変わらないものもある。カフェオレの飲みすぎで血糖値が高いこととか、お酒を飲みすぎてどうやって帰ってきたか分からないこととか、大事な話をするときいつもうまく喋れないことや、考え事をするときにいつも行く秘密の公園。一番大切にしている友人も、変わらず隣にいる。
あとは、相変わらずヒモが欲しいこと。
結局何が言いたいのかわからなくなってしまって、尻すぼみである。やはり日常的に感情をアウトプットする癖をつけなきゃいけないね…。
思い悩むことがなくなったわけではないけれど、ここ最近の生活は滑らかだ。有りがたい。