アーバンライフ

始まりは半年間付き合っていた彼氏に振られた10月だった。仲の良い非モテ腐女子に元カレの愚痴をこぼしていると「相席屋に行こう。しかも早いうちがいい。来週の水曜日は空いてる?」と声をかけてもらった。鬱憤も晴らしたいし、どうやらちやほやして貰えるようだし、何よりご飯もお酒もただで頂けるのなら、と私は即座にOKを出した。

 

 

初めての相席屋では3組ほどとお話をさせていただき、そのうち最後の一組が私たちと同じく学生で意気投合した。その後につながる出会いは期待できないだろうな、と思っていた矢先の事なので少しびっくりした。これがビギナーズラックか。2軒目を打診されたのでこれまた早々にOKし、自己開示をしながら楽しくお酒を飲んだ。年が近かったから話題は尽きないし、お互いに謙遜しあうこともせず、楽しかった。腐女子が終電を逃したため、4人でカラオケに向かった。ここまで書いてて思ったのだけれど、私たちは本当に即系(簡単にセックスできそうなタイプの女)である。無論、そこでセックスを醸された。ああ、やっぱりなあ。と思いながら丁重にお断りをして友達を連れて帰宅した朝は、男女という生き物に対する馬鹿馬鹿しさを感じながらも、それ以上にセックスがゴールにある綱渡りをするスリル、男性が自分をセックスに誘うまでの一挙手一投足に楽しみを感じていた。

 

その後しばらくは相席屋に通い、くだらない遊びを楽しんだ。残念なことにこの場所では本当に次につながる人間は見つからなかった。完全なるゲームだ。もちろん2人でフィードバックを行い、話し方・内容・より女性的に見える仕草・ボディタッチなどを研究した。この部分は今でも役に立っていると思う。

その頃の私たちからしてみれば、セックスをしてしまうことはゲームオーバーを意味することだった。「ギリギリのラインで。」これが私たちの合言葉だった。

 

 

しばらくして、そんな遊びにも飽きてきた。相席屋は一組一組に割かれる時間が長すぎるのだ。女に慣れていそうな男性はほぼいないと言って過言ではない。そんな男性たちが初対面の女とのセックスを狙って自己紹介から始めるんだからたまったもんじゃない。

 

何かほかに新しい楽しい遊びはないか。そんな私たちが見つけたのは、銀座にある某barだった。チケット制でお酒は安く飲める、立ち飲みだがそれ故に男性を巻くことができる、求めていたものがあったような気がしてすぐに向かった。

 

場所が変わっても性に飢えた男女がやっていることは変わらない。しかし圧倒的にスピードが違った。持っていたグラスを掲げてから30分もあればセックスまで事を運ぶこともここでは難しいことではないのだ。もちろん、上手い人間が相席屋に比べて多いということもあるのだけれど、それ以上に、セックスを求めている人間が多い。男であろうと女であろうと。圧倒的なリビドーにめまいを感じたけれど、すぐにハマった。多いときは週に2,3回、新しく見つけたゲームを楽しんだ。

 

 

そのバーのことを調べているうちに、「ナンパ師」という存在について知った。道・バー・クラブなどで女の子に声をかけ、その日のうち、または連絡先を交換してその後セックスをするということを生業にしている人たちである。世の中にはなんて酷い人間がいるんだ!と憤ると同時に、なんて面白そうな人間たちなんだ!とワクワクした。同じようにゲームを楽しんでる人がいる。しかも、全く逆の立場から、全く逆のゴールを目指している。最高に面白いじゃん。素直にそう思った。

これまたすぐにTwitterでアカウントを作成し、ナンパ師達を片っ端からフォローした。すべてを偽って頭の悪い股のゆるい女というキャラクター作りをした。(その方が気兼ねなく、下心ありで簡単にリプライを頂けるのでは、と思ったからだ。) それが功を奏したのかは分からないけれど、すぐにあるナンパ師と「読者」(ナンパ師のブログやTwitterを読んでいる人)という形で会うことになった。その後も何度か数人のナンパ師とお話をさせていただいた。彼らはいろいろな意味でテクニシャンであり、女だけでなく人を惹きつける能力を持っている。会話にしても挙動にしても不自由することがなく、純粋に楽しいお酒が飲めた。

 

ただ、残念なことが1つあった。私はナンパ師と会うたびに「どうしてナンパをしているんですか?」と聞いた。その答えがもうどうしようもなく残念だった。多くのナンパ師は「本当に大事にできる彼女を作るため。」と答えた。同じゲームをしていると思った私は本当にがっかりした。それが悪いことではないのだけれど、同志ではないと感じてしまった。

 

元々飽きが来ていたゲームに完全にピリオドを打たれた気がした。ある程度能動的に楽しいことを探し求めたし、少し休憩しようと思って、1月の終わりには街に出ることもほとんどなくなった。

楽しかったぜビッチライフ。(正直、キャラ作りのために偽っていただけで、セックスはほぼしなかったと言って間違いではない。ゲームに負けるのは好きじゃないから。)

 

 

そうこうしているうちに、私はある一人の男性と出会って恋愛をするんだけれど、それはまた別の話。

メンヘラのあり方。

メンヘラについて一言で表すことは簡単なことではないだろうけど、私は昔、メンヘラと呼ばれる人間だった。

始まりは、リビングの隣の寝室で布団にくるまって「学校に行きたくない」と泣いた時だった。次の日からまともに学校に通わなくなった。通えなくなった。中学三年生の5月頃であったと思う。

きっかけなんてもっと覚えていない。元々小さいころから学校は嫌いだったからそのせいかもしれないし、サボって寝てた時に聞こえた、大好きな友達から発せられた自分の悪口だったかもしれないし、はたまた、無理なダイエットのせいだったかもしれない。若しくはその全部が折り合わさって不協和音を奏でたせいかもしれない。

今でも鮮明に思い出せることといえば、いつもは温厚で声を荒げない父が泣いている私を怒鳴りちらしてタンスを壊したことと、普段は芯の通った強い人であったはずの母が声を上げて泣いていたことだ。それくらいの記憶しか、私にはもうない。多くのことを私は忘れてしまった。それは自分を守るためであったし、加えて、そんな家族を守るためでもあった。

毎日意味が分からなくなるほど泣いて、腕も切ったし拒食も過食嘔吐も繰り返した。別に、誰かにこの痛みがどれくらいのものなのかを分かってほしかったわけでもなかったと思う。ただ、真っ当に生きる道をそれてしまった自分に背徳感を感じて、それをより累加させて増幅させてみたかった。

 

メンヘラと呼ばれる人間には2種類あって、構ってちゃんメンヘラと本物のメンヘラ。前者はきっと極度の寂しがりやだったり、コミュニケーションの資質が乏しくて変なループに陥る自己嫌悪タイプなんだと思う。後者は一般的にボーダーって言われたりする境界性パーソナリティ障害だったり鬱病だったりするんだろう。もうこれは意思とは関係なく自傷したり短期記憶喪失してしまったりパニックになってしまったりする人々。

 苦しんでいるのはきっとどちらも同じで、寂しいのも構ってもらえないのも当然辛いし、訳の分からない病気で生活が上手くいかないのも辛い。どっちかが悪いとか甘いとかそういう話でもないことはきっと、本人達も分かってるんだろう。

 

 

メンヘラであることは悪いことではない、と私は思う。悪いことではないし、それについて誰かに侵害される必要もない。ただ、理解はしがたい。ストレスはやっぱり一般的な倫理観から外れない方法で発散することだ。腕を切るのも、おいしいご飯を吐き戻すのも、不特定多数とセックスをするのも、最終的には虚無感しか残らない。これじゃ無限ループだよ。元メンへラが言うんだからこれはまあ、間違いないよ。

 もっと言えば、メンヘラを克服できた人は素晴らしく素敵だ。残ってしまった心と体の傷跡なんてものともせずに笑ってる人間はこの世にたくさんいる。彼らがどんなきっかけでそうなれたかは分からないけれど、きっと何か幸せな出会いがそこにはあったのだと思う。私もその一人であると思ってるし、そうなれたことを誇りに思う。

 誰しも「メンヘラ」に偏る要素は持ってるし、それを流れ出させるきっかけなんて些細なものだ。そうなってしまった時、たぶん死ぬほどつらいと思う。わけもわからず、つらいと思う。


でも、悪くないよ。メンヘラ。鋭利な精神は心地いい環境から生まれることはないって何かの本に書いてあったし、それを糧にしていけるようになれたら割と未来は明るいよ。

メンヘラやってた人間が言ってるんだから、本当だよ。

 

ねがぽじ。

ポジティブとはなんぞや。

ポジティブは良いとされて、ネガティブはそうされない理由はいったい何なんだ。

 

私はネガティブな人間だし、そのせいで排他されることも少なくない。でも、排他的であったのはポジティブな人間であった。

 

 

ポジティブを辞書で引いてみると「積極的・陽極」なんて意味が出てくるけれど、私は主観的にものを考えられる人の多くがポジティブな人間な気がする。裏を返せば、ネガティブな人間は客観的に、第三者的に物事を考えてる人たちに多いと思う。

 

そもそも表裏一体であることに変わらない。

だからこそ、同じ穴に入れば反発しあう。そう感じる。

ポジティブだから良いとかネガティブだから駄目だとか、そんな話じゃないんじゃないかな。

 

ポジティブな人間がネガティブな人間と一緒にいれば、その積極性・主観的考察に歯止めがかかるだろうし、ネガティブな人間がポジティブな人間と一緒にいれば、第三者的判断が冷静に下せないだろう。

 

だからと言って、この広い世界で混じり合わないことはできないし、もっともどんな人間だってポジティブな面もネガティブな面も持ち合わせてるはずだ。根底はどちらかに傾いていたって、その上に乗っかってる矢印は小さい風で揺れ動く。

 

 

ポジティブな人間同士が加速度的に人生を進めていけることは羨ましい、本当に。でもそれと同じようにネガティブな人間同士が寄り添って新しい道を進んでいくことは、素晴らしいことだよ。マイナスとマイナスで掛け合わせたらプラスになるんだし、私たちネガティブな人間だって駄目じゃないよ。別にポジティブな人間だけがプラスになるわけじゃあないし、プラスに向かって行ってるわけじゃない。と、思うんだ。

 

それでも私は無いものをねだってしまう人間という生き物なので、ポジティブな人間に憧れるけどね。

 

 

 

ネガティブ同士、同志として寄り添いあって人生進んでくれる人間は、いったいいつ現れるんだろうね。

non title

19歳の時、私は初めて人を愛した。

 

 

どうしようもない出会い方だった。

 

中学生の頃にSNSで出会って5年間オンライン交流を経て合コンを開き、初めて顔を合わせた。そうしてその日のうちにセックスした。それから3年付き合っていた彼氏と別れ、その人と付き合っているのか付き合っていないのか不明瞭な同棲生活を始めた。(実はここにはもう一人同居人がいたのだが)

 

彼は常に鋭利な言葉遣いをしていたし頭が抜群にキレたから、近づきづらい雰囲気を醸していた。けれど、彼が自分のテリトリーにいれた人間にはいかんせん甘かった。鋭い見た目のくせに、ぶつかっても全く痛くないもやっとボールのような人だった。

 

 

毎日がスリリングだった。

田舎から出てきて平々凡々とした一人暮らし生活を送っていた私には、深夜に自転車に乗ってラーメンを食べに行ってカラオケで夜を明かすことも、セックスだけをして休日を終えることも、学校をサボって手を繋いでスケートに行くことも何もかも新鮮に見えた。

そして毎日体で愛を表現した。

学校に行って帰ってきて、買い出しに行きお米を炊いて料理をして同じ時間にお風呂に入ってセックスをして抱き合って眠った。抱き合って眠ったのは嘘。私は暑がりなので人とくっついて寝るのが苦手なのだ。

 

それから、私は彼が書く文章が最高に好きだった。

筋の通った文章、ひらがなを使うタイミングや句読点の場所、彼と彼の周りの人間関係や環境が背景に垣間見える濃度が、私は気持ちよかった。「考え抜く」ことができる人なので、きっと筋の通った文章が書けたのだろう。そのおかげで私たちは原子・分子レベルのくだらないことから、暗い自分の昔話まで、本当にたくさんのことを話して考えた。安いお酒を片手に彼の家で、デートの帰り道の喫茶店で、モーニングを食べに行ったファミリーレストランで。グラデーション的に話を深めていく彼の話し方もまた、大好きだった。

 

 

 

まあ、最終的に私はフラれてしまったのだが。

 

離れていく彼の気持ちにも、他に気になる女の子が近くにいることも薄々気づいていた。気づいていたけど、どうすることもできなくて今まで通りに行動で愛を伝え続けた。

でもだめだった。

離れて行く気持ちは一方通行で、私がどんなに縋り付いたって戻ってくることはなかった。

 

 

彼が私に愛想を尽かした理由は、私がたった一言「好きだ」とか「愛してる」とか言えなかったから。

元々付き合っていた彼氏と別れたと言えど、彼はずっと不安を抱いていた。好きだと言わない私に。付き合って欲しいと言わない私に。

そんなの、自分から切り出せばいいじゃない。と思う人もいるかもしれないけれど、それは違う。もう、どうしようもなく全般的に私が悪かった。私が襟を正して正式に伝えるべき言葉であったのに。最後まで言えなかった。

 

もちろん反省しているし、多大な後悔もしている。きっとあのまま一緒にいられたら、一生一緒だったとも思う。本当に大事な人を傷つけるだけ傷つけて、相手に「別れを切り出す」という大きな仕事をさせてしまった。この場を借りて、ごめんなさい。

 

 

 

すごく楽しくて、すごく悲しくて、すごく学んだ恋愛だった。

結局愛だろうと何だろうと、言葉にしなきゃ伝わらない。どれだけ目に見える形でも体に感じる体温でも、それに伴う言葉がなきゃあ、いけないんだ。

 

 

なかなか簡単にできることではないけどさ、頑張ってみようって思うよ。

 

 

 

(この投稿にタイトルをつけようと思ったのだけれど、つけてしまったらなんだか自分の人生にタイトルがついてしまうような気がした。)

うすい嘘。

嘘をつくのが苦手だし、つかれた嘘を見抜くのも苦手だ。
でも私はよく嘘をつく。特に好きな人に、身近な人に。
大した嘘じゃなく、誰も傷つけることのないようなくだらない嘘だ。自分を飾るものでもなく守るものでもなく。そもそも自分を守るためになら、嘘なんかつかなくったって黙っていればいいだけだしね。
なんのためにそうするのかはもう忘れた。自己防衛のようなものだった気もするけど。


好きな人につく嘘は、コンドームのように薄くて優しくて相手に負担を与えないものにすると心に決めている。
気づくか気づかないかの小ささで、気づいたならそれは相手にとって気持ちのいい嘘であるように。
子供がおどけているような気分になりたいんだ、私はきっと。

やさしさがために少し離れていたい気持ちもそこにはあるけど。


私は嘘をつくし、それを悪びれるつもりもない。自分の本能を丸出しにしないように尖った気持ちで傷つけないように、コンドームのように薄く優しさのある嘘をつく。

花の命は短くて苦しきことのみ多かりき。

女の恋愛市場価値は高く、消費期限が短いことは私が声を大にしなくてもきっとみんな分かっていることだと思う。分かっていて、それを分からないふりをしている女性も多いと思う。私だってできることなら気づきたくなかった。

 

 

先の投稿で"探し物をしてる人間は踊って遊んでる場合ではない"と書いた理由の大半はここにある。

 

 

「彼氏が欲しい。彼氏ができたら一緒に旅行にいって、写真をたくさん撮ったり、同じ時間をたくさん過ごしたい……」

 

もっともももっとも、ものすごく至極どうしようもなくもっともな希望でぐうの音も出ない。

 

 

「……でも合コンに自分から向かうのはがっついているようで嫌だし、かと言って周りに出会いがあるわけでもないし環境を変える訳にもいかないしなかなかうまくいかないよね。」

 

もっともらしいがこの意見には全く同意できない。ぐうの音どころか反吐すら出る。20歳前半の私たちは、この後まだまだ出会いの場はきっとある。そう思いたいだけかもしれないが。

 

でも、ただ降ってくるだけのモノを待ってることがこの探し物の正解なのか?降ってくるモノを待ってた結果、今現在の君がいるんじゃないのか?

 

遅いんだよ、それじゃあ。恋愛市場では、スタートラインには勝手に立たされてるし、スターターピストルはどんどん鳴らされる。聞こえていないふりはできないんだよ。

 

 

 

ここで結婚妊娠出産の話を。

 

結婚には双方の精神的状況だけでなく肉体的状況や取り巻く人たちのそれらももちろん関わってくる。と、同時に(もしかしたら一番に)経済的状況も加味されるだろう。

幸福なことに私は経済的には恵まれて育ち、それについて頓着があるわけでもないので、金銭的な話について今はいったん置いておくことにする。

また、私は医療に従事する人間である。よって、とりあえず、とりあえずとして肉体的な問題から結婚を考えてみる。

 

正直な話、私は結婚に興味がない。(まったく本末転倒な話である。) 理由はいくつかあるけれど、一番に出てくるのは"子供が欲しいと思えない"ところにあると思う。結婚は恋愛と打って変わって、いわば法的契約であり特別かつ神聖だと思われるかもしれないが別にそんな拘束は大したものではない。じゃあ何が二人を結びつけておくか考えた時、やはり”子供”であろうと考えるからね。

私にとって「結婚=子供を産み育てること」であるのだ。まあ、多くの人はそう思ってるんじゃないかな。そう思ってると信じて話を進めていくよ。

 

妊娠・出産は本当に、心の底から素晴らしいものだと思うよ。(申し訳ないがこれは客観的意見だ。) 

 

しかし、ここでも同じように肉体・精神・経済的な問題が挙がる。

 

結婚と妊娠出産を繋げて、先述したように肉体的な観点からそれを考えた場合、女性は18~30歳の間に子供を産むのがベストであろう。

卵子は20代後半より老化が始まり妊娠率は下がっていく。それに伴い染色体異常を引き起こす可能性がある。染色体異常を発症する確率は~30歳で約1/500であるのに対し、それを超えると急激に増加する。わかりやすく、ダウン症に焦点をおくと20歳代の出産では発症率は0.06%であるのに30歳を超えると0.1%、また40歳を超えれば1%以上と統計が出ている。

高齢出産のリスクからは逃れられない。残念だけれど、現代医療はそんなに簡単に明確に進歩はしていかない。と、いうわけで肉体的にはやっぱり身体的成長が落ち着いた18歳から卵子の老化によるリスクが少ない30歳までに子供を産むべきなんじゃないかなと思う。

 

でも現実的に考えるとそんなわけにもいかないよね。だいたい、今の世の中女だろうと男だろうと多くの人が高校卒業後は進学するだろうし。さっき置いておくって言ったけど、経済的状況もあるし。

4年制の大学に進学したとして、卒業が22歳時。そのままストレートに就職して3年働いて25歳。だいたいこの時期くらいじゃあないかなあ。

つまり、リアリティのある子供を産むベストな女性の年齢ってのは25~30歳。多くの焦ってる女性もみんなこのくらいの年齢だしね!

 

 

話を本筋に戻していこうね。脱線してたわけじゃないから…。

交際を始めてから結婚に至るまでの期間として最も一般的なのが1年半~2年らしい。出会ってから交際を始めるまでは幅があるだろうけど、SNSも普及した今では半年もあれば十分じゃないかな。

じゃあさっきの年齢からその期間を差し引くと22~28歳の時にはもう結婚を前提としたお付き合いをできる彼と出会ってなければいけないんだよね、私たち女は。

大学卒業して就職して社会の荒波に揉まれてる場合じゃない。さっさと婚活始めなきゃいけない。マジハード。

 

 

 

こうやって少しずつ考えていくと20代前半の私たちが出会いを求めて動くことはまったくおかしくないことが分かってくるよね。納得してくれましたか。

別に「遊ぶ」言い訳が欲しいわけじゃあない。少し現実味をもって考えて欲しいだけなんだよ、あなたにね。

見つけにくいもの。

探し物はなんですか 見つけにくいものですか

鞄の中机の中も探したけれど見つからないのに

まだまだ探す気ですか それより僕と踊りませんか

 

 

踊ってる場合じゃないんだよ!!!!!!! 

 

探し物をしてる人間は、いい加減呑気に自堕落的にダンスしてる場合じゃないことに気づいた方がいい。探し物を辞めた瞬間「それ」が見つかるなんて嘘だ。そもそも興味を失った探し物を見つけたところで、瞬間的に台風のように訪れる喜びを握りしめて生きていくことのできる人間はいない。いたとしても本当に一握りで、まだまだ生きてきた時間は短いがそれが私に当てはまらないことはもう分かっている。

 

じゃあどうするか、人に聞いている場合じゃない。探し続けなきゃいけない。馬鹿みたいな社会の歯車になって生き続けなきゃいけないように、探し続けなきゃならない。途方もない。まいったね。

 

 

 

私は愛を探してる。と言ったらものすごい重たい気がするから、彼氏を探しているということにしよう。

そんな中で出会った人たちと、過去に私に変化をくれた人間と、常日頃から考えてること、ポッと思いついただけのこと、そんなことを素直に書いていきたい。と思っているブログです。

 

そんなわけでどうもこんにちは。